2020/7/22

【世界遺産5周年記念】第5回「郷土の誇りを“未来”へコンクール」に応募しよう!②~三重津海軍所編~

 前回① ~明治日本の産業革命遺産編~では、三重津海軍所跡が構成資産の1つである「明治日本の産業革命遺産」について紹介しました。
 今回は、三重津海軍所についてみていきます。

1.三重津海軍所跡の価値

三重津海軍所跡の価値は大きく3つあります。

  • ①幕末における洋式海軍成立の様子がうかがえること。
  • ②西洋技術と在来技術をうまく融合させた試行錯誤がうかがえること。
  • ③有明海の自然の力を活かした、先人たちの知恵と工夫がみられること。

これらが、自力による近代化を目指した過程をよく表していると高く評価されています。
それぞれどういうことなのか詳しく見ていきます。

2.長崎警備による海外への危機感

 佐賀藩は当時、長崎警備を行っていました。そこで、欧米列強のアジアへの進出に対して強い危機感を持つようになります。アヘン戦争では、当時アジアの中で一番大きかった清国がヨーロッパの小さい国であるイギリスに負けたことで、欧米列強の強さにとてもショックを受けました。そこで、佐賀藩は他の藩より先に、海防(海を守ること)を強化することに必要性を感じ、鉄製大砲の製造や、洋式船の導入、海軍の創設などに挑戦します。

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3.「長崎海軍伝習所」への参加

 1855年、幕府は、長崎に「長崎海軍伝習所」を設置しました。1853年にペリーが黒船で来航し、海防を強化する必要がありました。
 佐賀藩からも多くの藩士が参加し、オランダ人の教官から、洋式船の運航法(船の操作の仕方)や造船法(船を造る方法)、蒸気機関の構造など海軍に関する知識・技術を学びました。

「長崎海軍伝習所絵図」公益財団法人鍋島報效会所蔵
「長崎海軍伝習所絵図」公益財団法人鍋島報效会所蔵

 佐賀藩からは、精錬方の藩士を中心に48人が派遣され、精錬方の主任であった佐野常民や蘭書の翻訳を主に担当していた石黒寛治が参加していました。
 他にも、勝麟太郎(かつりんたろう)(のちの勝海舟)、矢田堀鴻(やたぼりこう)(江戸幕府最後の海軍総裁)なども学んでいました)
(ちなみに、オランダ寄贈の洋式船「観光丸」を使って講義を行っていましたが、この観光丸は後に佐賀藩三重津海軍所で運用されました。現在は、復元されたものが、ハウステンボスで見ることができます。)

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4.三重津海軍所の前身「御船手稽古所」

 1858年、三重津の「船屋地区」に「御船手稽古所(おふなてけいこしょ)」が設置されます。
 長崎海軍伝習所で学んだ知識や技術を藩内に広めるために設置され、洋式船を運用する技術を教育しました。ここが三重津海軍所の前身となります。
 昔の「御船屋」の絵図と比べると、同じ地形が今も存在しており、漁港として利用されています。このように同じ地形がいまも残っていることは、世界遺産に選ばれる上でも大変評価されています。

「三重津御船屋絵図」佐賀県立図書館蔵
「三重津御船屋絵図」佐賀県立図書館蔵

現在の船屋の様子
現在の船屋の様子

 そこから下流の方には、「稽古場地区(けいこばちく)」が整備されます。翌年1859年、江戸の築地に軍艦操練所が整備され、長崎海軍伝習所が閉鎖されると、長崎海軍伝習所で学んだ藩士たちが中心となって本格的な海軍の訓練を行うために拡張しました。
 その後さらに下流には、1861年「修復場地区(しゅうふくばちく)」が整備されます。訓練に使用する洋式船の修理を行うドライドックや船の修理に必要な部品の製造を行う施設を整備しました。ここにおかれたドライドックは日本最古の西洋式ドッグとして、大変価値の高いものになります。

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5.日本初の実用蒸気船「凌風丸」

 三重津海軍所では、1865年、日本初の実用蒸気船「凌風丸(りょうふうまる)」が建造されます。(実用とは、実際に人が乗って航海に出ることができることを言います。先に薩摩藩が蒸気船の建造に成功しましたが、実用には至りませんでした。)
 「凌風丸」は、船体の両側に水車のような推進器をつけた外輪船で、全長約18m、幅は約3.3m、蒸気機関は10馬力でスピードは4ノット(およそ時速7.5km・・・自転車よりも遅く、歩くよりも早いペース)で蒸気の力で進みます。
 主に藩主が近場を巡る「御座船」として使われ、諫早や伊万里を航海した記録が残っています。
 ちなみに、凌風丸の外輪部分は、1mも水に浸かっていません!早津江川から有明海には干満の差があり、泥の多い海底にも対応できるよう最初から設計していました。

(凌風丸のCG画像)
(凌風丸のCG画像)

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6.日本に現存する最古のドライドック

 洋式船は、これまでの和船に比べ、その大きさも作る技術も違いました。三重津のドライドックは、洋式船の修理をおこなうために造られました。ドックへの船の出し入れは、最大6mある有明海の干満の差を利用していました。

(ドックの構造)
(ドックの構造)

 発掘調査によって、三重津海軍所のドライドックの奥行きは、約60m、幅は約25m、高さは約3~4mだったとわかっています。(小学校にある25mプールが4個も入る大きさ!)

(ドックの大きさ)
(ドックの大きさ)

 海軍の訓練のために、佐賀藩がオランダから輸入した、全長およそ45mの「電流丸」もここで修理されています。
 当時、明治期以降のドライドックが石やレンガで造られていたのに対して、三重津のドックは、有明海特有の柔らかい地盤に建設したため、木と土を組み合わせた日本の伝統的な土木技術により造られています。形は西洋のものを取り入れていますが、もともと日本にある技術を駆使して造られています。
 このように、外国との窓口である長崎、そして日本を守るために、西洋の科学技術を積極的に取り入れた佐賀藩の試行錯誤の挑戦は、のちに日本全国で開花し、明治日本の産業革命に貢献したことは、その後の歴史においても大きな意義を有しています。


コンクールに応募しよう①~明治日本の産業革命遺産編~
コンクールに応募しよう!③~世界遺産編~

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