九州を中心に各地に点在する世界遺産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」。
その一つ、佐賀県の三重津海軍所跡は特異な存在と言える。というのも、地中に幕末期のドライドックが保存されているのだ。
ここにはかつて、日本の近代化を牽引した佐賀藩の科学技術力の粋を結集し、西洋式海軍の拠点が置かれていた。

略年表で見る三重津海軍所成立までの流れ

なぜ三重津海軍所が生まれたのか

■十代佐賀藩主鍋島直正(公益財団法人鍋島報效会所蔵)

■十代佐賀藩主鍋島直正
(公益財団法人鍋島報效会所蔵)

 1642年(江戸時代初期)、佐賀藩は幕府から出島のある長崎の警備を命じられた。日本に寄港しようとする外国船は長崎へと送られ取り調べを受けた。その外国船が帰帆するまで不審な動きが無いかを監視し、警備することが有事の際の重要な役割だ。初代藩主鍋島勝茂が幕府から命じられて200年以上、長崎警備は佐賀藩において最重要任務であり続けた。
 国防の最前線で佐賀藩が見つめてきたものは、外国船の軍備が進化し、造船技術や航海術が目まぐるしく向上していく様。鉄製大砲を備えた外国船は数キロ先からの攻撃が可能であるのに対し、日本は未だ鉄砲を持った歩兵が乗船し近距離から攻撃を仕掛けるしかない。欧米列強に攻め入られた時、国を守る術はあるのか。
 そんな不安を大きくしたのは、1840年に勃発したアヘン戦争であった。東アジア最大の国・清がイギリスに敗北、不平等条約が締結された。「日本も同じ道を辿るかもしれない」。そう考えた十代佐賀藩主鍋島直正は幕府に長崎の海防設備を強化するよう進言を行ったが、幕府は動こうとはしない。
 業を煮やした直正は、佐賀藩の領地であることを理由に長崎湾の神ノ島・伊王島などに台場を築造、大砲を設置すると宣言した。「巨砲を鋳し万里を威せんと欲す」。鉄製大砲の鋳造、蒸気船の建造が外国への抑止力となり、国の防衛力を向上させると考えたからだ。

日本初の技術に挑戦

 佐賀藩がまず取り掛かったのは従来の銅製大砲に比べ高い能力を持つ鉄製大砲の鋳造。大量の鉄を溶かすため、オランダの技術書を参考に他藩に先駆けて反射炉の建設を進め、幾度も試行錯誤を繰り返し、ようやく完成させる。当時、西洋の科学技術を得る方法は限られていたが、長崎警備の役を務めていたことからオランダとの接触の機会に恵まれていた。次に着手したのは、蒸気船の建造。後に日本赤十字社を創設する佐野常民(さのつねたみ)が主任を務めたいわゆる理化学研究所「精煉方」に、他藩から田中久重(たなかひさしげ)ら優秀な人材を招聘し蒸気機関の研究を進めた。ここでは蒸気車のひな形(模型)を製造。精煉方での成果は、のちに三重津海軍所での取り組みに活かされる。
 また、装備だけではなく、洋式船の運用術や艦砲術を身に付けた軍隊の育成も必要である。折よく幕府がオランダ式海軍の技術を伝習する「長崎海軍伝習所」を開設したことから佐賀藩は多くの藩士を派遣。1858年には三重津(現・佐賀市諸富町・川副町)に「御船手稽古所」を開設し、伝習生による技術の教導が行われた。これが「三重津海軍所」の前身である。
 先述の精煉方の技術者も積極的に長崎での海軍伝習に参加しており、精煉方で研究した蒸気機関は、三重津海軍所で日本初の実用蒸気船「凌風丸」として完成した。その後、日本は明治維新を経て急速な近代化を果たし、欧米列強に肩を並べる存在となっていく。明治新政府の技術官僚の多くは元佐賀藩士たちであった。世界に名だたる「ものづくり大国・日本」、その基盤は佐賀から始まったと言っても過言ではない。

■三重津海軍所跡で発掘されたドライドックの木組護岸遺構

■三重津海軍所跡で発掘されたドライドックの木組護岸遺構

■三重津海軍所で完成した凌風丸のイメージ図

■三重津海軍所で完成した凌風丸のイメージ図

「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、
石炭産業」と三重津海軍所跡

「明治日本の産業革命遺産」23構成資産 「明治日本の産業革命遺産」23構成資産

23の構成資産から成る世界遺産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」。重工業分野において、日本が急速な産業化を成し遂げた道程を証明する遺産群である。三重津海軍所跡は、日本が西洋の科学技術を直接導入するようになる明治以前、蘭学書を片手に失敗を繰り返しながらも自らの足で近代化への一歩を踏み出した、最初の足跡。佐賀藩士・技術者の執念と、欧米の脅威から日本を守るという藩主の矜持が実を結んだ、重要な一歩である。佐賀藩の取り組みは、薩摩や萩など他藩にも大きな影響を与え、明治維新の原動力となった。

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本当の意味での文明化を見据えていた佐野常民

佐野常民
 佐賀藩が鉄製大砲を鋳造し、西洋式海軍の修練と修船を行う三重津海軍所を開設、日本初の実用蒸気船・凌風丸を完成させることが出来た背景について、佐野常民の存在なくして語ることはできない。
 佐賀藩の理化学研究施設である精煉方の責任者を務めた佐野は、藩の内外から優秀な人材を招聘し、蒸気機関の研究や三重津海軍所での造船に注力させた。蘭学に精通していた丹後田辺藩出身の石黒寛次、化学に精通し理論研究を担った京都出身の中村奇輔、“東洋のエジソン”と呼ばれた発明家で後に東芝を創業した久留米藩出身の田中久重は有名である。15歳で遊学のため江戸へ上った佐野は、その後、広瀬元恭の時習堂、緒方洪庵の適塾、華岡青洲の春林軒塾、伊東玄朴の象先堂など全国を転々としながら医学をはじめ幅広い分野の学問を修め、日本トップクラスの理化学者・技術者たちとの交流も重ねていった。佐賀藩から呼び戻される際に、先述の技術者たちを招聘することが出来たのは、佐野の尽力と人脈によるところだろう。佐野の活躍は藩内に留まらず、三重津海軍所で凌風丸を竣工させた後、1867年にパリ万博に佐賀藩派遣団の団長として参加し、佐賀藩の特産品である磁器や和紙などを出品。その際に10代佐賀藩主鍋島直正の特命によりオランダに軍艦を発注している。
 その万博会場で、佐野はその後の運命を大きく変えることとなった赤十字と出会う。かつて修行時代に学んだ人命尊重の精神、ヨーロッパで出会った赤十字の理念を忘れなかった佐野は、1877年、西南戦争が勃発した際、敵味方の区別なく負傷者を救護するため、博愛社を設立した。「博愛は人の至性に基づく」―人々は文明開化の象徴として法律の完備や機械の発達を挙げるが、佐野は赤十字のような人道的国際組織の発達こそが、文明進歩の証拠と考えたのであった。博愛社設立から10年後の1887年、佐野は日本赤十字社の初代社長に就任。日本赤十字社は、その後、磐梯山噴火の災害救護、日清戦争の戦時救護など、さまざまな場で活躍した。1902年10月、日本赤十字社創立25周年式典が盛大に挙行され、佐野は最高の栄誉である名誉社員に推薦された。その2ヵ月後、時代の先を見据え続けた佐野は、80年の生涯を静かに閉じたのであった。

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三重津-発見旅