世界遺産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成資産の一つ「三重津海軍所跡」。日本の基幹産業・重工業の分野において、造船は明治以降に大きな発展の時代を迎えるが、今回は船の修理などを行うドックの発展の道筋を辿る。

明治以降のドックの発展

 1869年、長崎市小菅町に日本初となる西洋式の近代的な船舶修理施設「小菅修船場」が造られた。薩摩藩の小松帯刀、五代才助(後の友厚)らが建設計画を進め、英国スコットランド出身の貿易商トーマス・B・グラバーの協力により完成した。蒸気機関を動力とするイギリス製の曳き上げ装置を備えており、巨大な歯車を蒸気で回し、1000トン級の船舶を陸上へと曳き上げて船底の修理を行うことが可能となった。海中からは174メートルのレールが敷かれ、船を乗せた台(船架)を動かして船を曳き上げるスリップドックである。細長い船架が並ぶ様子から「そろばんドック」と呼ばれた。小菅修船場跡は、開国による西洋技術流入の象徴的な存在として現在もその姿を残している。この小菅修船場の完成から約半世紀というごく短期間で、ドックはさらに発展する。三菱長崎造船所においては電気ポンプによって長さ222メートル、深さ12メートルの巨大なドック内の排水が行われるようになった。このように、動力が蒸気機関から電気へと発展していく様は、日本が西洋の科学技術を導入した時代から産業基盤を確立する時代への変遷を示しており、小菅修船場跡及び三菱長崎造船所第三船渠は、いずれも世界遺産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成資産の一つとなっている。

《ドックの発展》
三重津海軍所跡
三重津海軍所跡 ドック入渠に潮位の自然干満を利用(写真提供:佐賀市教育委員会) ドック入渠に潮位の自然干満を利用
写真提供:佐賀市教育委員会
小菅修船場跡
小菅修船場跡 蒸気機関による曳き上げ(写真提供:三菱重工(株)長崎造船所) 蒸気機関による曳き上げ
写真提供:三菱重工(株)長崎造船所
三菱長崎造船所第三船渠
三菱長崎造船所第三船渠 電気ポンプによる排水(写真提供:三菱重工(株)長崎造船所) 電気ポンプによる排水
写真提供:三菱重工(株)長崎造船所

日本在来の土木技術と西洋技術の融合

 明治以降、西洋技術の流入を受けて日本の造船技術は大きく進歩したが、それ以前の1850年代、西洋の書物や船を参考に試行錯誤しながら産業化へ挑戦した時代があった。その時代を物語るものとして、世界遺産「明治日本の産業革命遺産」の構成資産の一つに登録されているのが、佐賀市諸富町と川副町にまたがる「三重津海軍所跡」である。三重津海軍所では、長崎海軍伝習所で学んだ藩士たちが教官となり、近代的な海軍教育や訓練を行ったほか、ドライドック(御修覆場)等を整備し船の修理や造船を行った。三重津海軍所のドライドックは訓練で使用する大型の洋式船を早急に修理するために、日本古来の木組み工法が採用された。地下水位の高い佐賀南部低地に築かれたドライドックは、埋没後は地下水に浸かった状態に保たれ、酸素中でしか活動出来ない有機質を分解する微生物から保護された。その結果、通常は土中では腐敗してしまう木製の遺構が極めて良好な状態で地下に残っている。このドックは現存する国内最古のドライドックといえる。
 西洋で一般的に造られていたドライドックは、護岸の掘削工事から始め、ポンプでドック内に送り込んだ水の浮力を利用して船を上げ下げするものであった。一方、三重津海軍所のドライドックは、有明海に流れ込む早津江川の干満の差を利用し、ポンプで水を送り込んだり排水したりせずとも、時間が経過すれば自然と船底が露出し、また時間が経てば水が増えて浮上するというものであった。ドライドックの壁からは牡蠣殻や石炭クズを充填した土嚢が一部出土しており、土砂がドライドック内に流入するのを防ぐための工夫が見える。また、和船では用いられないタールを塗って耐水性を高めた洋式船舶用のロープが出土しており、ここでの洋式船の運用を裏付けている。

《三重津海軍所のドライドックの特長》 三重津海軍所のドライドックの特長
三重津海軍所跡でのドライドック発掘調査風景

三重津海軍所跡でのドライドック発掘調査風景
写真提供:佐賀市教育委員会

三重津海軍所跡から出土した洋式船舶用ロープ

三重津海軍所跡から出土した洋式船舶用ロープ
写真提供:佐賀市教育委員会

 本来であれば三重津海軍所が設置された土地は低湿地のため大規模な建造物の建設には不向きだが、佐賀藩ではその難点を在来の土木技術により克服していた。調査によると、三重津海軍所ではドライドックに隣接する船の金属部品製作場の地盤に、砂と粘土を交互に重ねる工法が使用されていたという。これにより粘土内の水分は砂に浸透して排水され、比較的短時間で乾燥する。船の金属部品を鋳造するには水気が大敵であるため、こうした技術が採用されたのだろう。三重津海軍所が設置されるより前に造られていた佐賀城本丸や城下を通る長崎街道の出入り口など藩内の重要な場所に施工例が見られ、在来の土木技術を活用したことが分かる。この工法は「多段式サンドイッチ工法」として現代でも使用されている。湿気が多く乾きにくい軟弱地盤と呼ばれる佐賀南部低地の環境に適応したこのような土木技術も、佐賀藩における科学技術の発展を支えていた。

三重津海軍所跡(ドライドック隣接部分)の地盤  写真提供:佐賀市教育委員会

三重津海軍所跡(ドライドック隣接部分)の地盤  写真提供:佐賀市教育委員会

 先人たちの知恵と工夫で造り上げられたドライドックの遺構が眠る三重津海軍所跡。その価値は、これからも大切に未来へと守り伝えられていく。

発掘調査で明らかになった新事実!

遺構が地中に眠っていることから、まだまだ謎多き三重津海軍所跡。2019年度のボーリング調査により、ドライドックの深さが約4メートルから約5メートルに修正された。こうした調査結果を踏まえ、2021年秋にリニューアルオープン予定の佐野常民記念館(三重津海軍所跡ガイダンス施設)では、リアルなドライドックの原寸大模型が公開される予定だ。

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出土品から見えてくる三重津海軍所

 三重津海軍所跡は、世界遺産の構成資産に指定されて以降も積極的に発掘調査が行われており、様々な新事実が明らかになっている。
 ドライドックの地盤には、水はけをよくし作業効率を向上させる目的で、粘土と砂を交互に重ねる工法が用いられているが、ドライドックに入った川の水が自然排水される際に、砂はドックの壁に使われている松杭の隙間から地下水と一緒に流出してしまう。それを防ぐために、土嚢(どのう)が杭にそって整然と積まれていた。土嚢は、稲ワラを筵(むしろ)状に編み込み、二つ折にして端を縫って袋状にしたもので、中に土が入っている。通常の遺跡では、ワラのような脆い植物性の素材は残りにくいが、三重津は土中に水分が豊富に含まれていたため、植物性の遺物があまり腐食しないまま残り、製作方法や素材の鑑定も可能となった。土嚢のほかにも、竹の茎を細かく割って棒状にした竹ひごを編んだ製品も出土している。この製品は全体の形状や素材の厚みから、土木作業用の土箕(つちみ)と考えられており、ドックの建造や修理に使われた道具かと想像できる。
 このほか、洋式船につかう特殊なロープ(索)もドライドックから出土している。このロープは帆船の帆を操作したり、マストを支えたりと、船を動かすためには欠かせない道具であった。出土したロープには縄の表面に布が巻かれており、タールを塗った痕跡がみられる。(※)当時の和船で使用する綱には、このような製造方法はまだ使われていない。三重津海軍所が洋式船を建造・修理のためにつかわれたことを示す遺物と言える。
 (※1858年か翌年におこなわれた船具運用の講義筆録『軍艦操練所ノート』(佐賀県立博物館・美術館蔵)に使い方が記録されているほか、明治4年(1871-1872)に書かれた『英式運用全書』(原書はG.S.NaresのSeamanshipの第4版(1868年))には、古い帆布などでロープの周の半幅ほどのテープを作り、これにタールをしみこませ、ロープの縒(よ)りに沿って、テープ幅の約1/3を重ねて捲くなど等とその製作手順が細かく記されている。)
 また、タールは防腐材としての役割を果たすため、当時の洋式船にはロープだけでなく船体などにも塗られていた。1853年にペリー率いるアメリカの艦隊が来日した事件を「黒船来航」と呼ぶが、江戸時代以前から洋式船は「黒船」と呼ばれていた。その呼称は船体にタールを塗っていたことに由来する。つまり、当時は洋式船をメンテナンスするためには大量のタールが必要になったわけだ。発掘調査では、タール塊とタールの原料の石炭や製造過程で出現するコークスが同じ遺構から多量に出土していることや、化学分析の成果からタールをよそから持ち込むのではなく現地で製造した可能性が高まっている。
 三重津海軍所の発掘調査で見つかった木や土でつくったドライドック等の遺構の多くは、国内ではまだここでしか見つかっていないものが多いうえ、幕末の造船に関わる遺跡自体も例が少なく、調査方法も確立されていない。このため、発掘調査で検出したさまざまな遺構や遺物の評価については、まだ不明なことも多いのが実状である。逆にいえば新たに分かることは、そのほとんどがこれまで誰も知らなかったことであり、私たちに多くの驚きと感動をもたらしてくれる。
 現在、萩(長州藩)の恵美須ヶ鼻造船所でも、三重津海軍所と同時代の洋式船を建造した遺跡の調査が着々と進められており、当時、近代化を牽引した佐賀藩と長州藩の調査成果が出そろうことで、新たな歴史の発見が生まれることが期待される 。

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三重津-発見旅